赤山の阿闍梨さま

赤山禅院の住職を勤めている、叡南俊照大行満大阿闍梨は親しみと尊敬を込めて「阿闍梨さま」と呼ばれています。

昭和18年(1943年)生まれであり、昭和54年、36歳の時に千日回峰行を満行しています。

「赤山の御前さま」と呼ばれ人々から愛された先代住職、叡南覚照 大行満大阿闇梨を師とし、厳しい修行をする中で多くのことを師から学んでこられました。 実直で慈愛に満ち、高僧でありながら気さくで多くの人から慕われ愛される「赤山の阿闍梨さま」についてご紹介します。

小僧時代

阿闍梨さまこと俊照師は香川出身で、幼い頃は野球が好きな少年だったという。彼は、中学二年生の時に香川県にある金倉寺の小僧となった。当時、金倉寺の住職をしていた大岡俊謙老師は俊照師について「それまで抱えてきた小僧の中で特に真面目で、私がいくら遅く帰ってきても、きちんと起きている。律儀なこどもだと思っておりました。お経もよく学びましたし」と語ったそう。熱心に小僧の仕事をしていたことが伺える。その後、比叡山高校に入学し、無動寺谷の玉照院での小僧生活が始まった。これが俊照師と、師匠となる覚照師との出会いだった。

師資相承という言葉がある。「師が弟子に口頭で奥義などを伝え、代々伝承していく」という意味だ。言葉だけを見ると何となく想像がつくが、仏教の世界では単に弟子が師匠から何かを受け継ぐというだけではない。死をも覚悟する厳しい行者修行の過程で、師匠と弟子は一心同体とも言える精神交流で結びつき、心構えや修行の術を身をもって受け継ぐのだ。俊照師と師匠である覚照師、お二人もまた師資相承。師匠に「おまえ、もうあかんな。はよう荷物まとめてね!!」と厳しい言葉を投げかけられることもしばしば。それでも弟子はただ師匠を信じ、ついていく。俊照師はどれだけ師匠に厳しいことを言われても、辛抱できないからと寺を飛び出すようなことはなかったそう。それだけの覚悟と努力、根性を俊照師は持ち合わせていた。

無動寺谷に来てから最初はずいぶん戸惑ったという。たとえば金倉寺で小僧をしていたときは、住職にどこをどうしろと指示された。それが習慣になっていたから玉照院でも、「ご用はありませんか」と聞くと師匠は即座に「ない」の一言。それが続いたある日、「おまえ。何かご用はありませんかとはどういうことじゃ。汚れとったら掃除すればええ。薪がなかったら薪をつくれ」とどなられたのだ。寺によって弟子の育て方は違うもの。無動寺谷ではすべてを小僧に考え行動させるのだ。けれど出来なければひどく怒られる。そしてやがては身体で覚えることになる。

また、小僧の”後押し”も行者の師資相承といえる。俊照師も小僧時代は師匠の千日回峰行中、長い道のりを歩く師匠の腰にY字の棒を当て、後押をして来た。「後押し棒のY字の方は師匠の腰にあて、一方の端を掌で押さねばならない。これもつらい修行で、ちょっとでも師匠と歩幅がくるえば隙間ができては落ちる。師匠にどなられる。すべてが一心同体にならなければ、うまくいかんのです」と俊照師は語った。

師匠が左へ足を踏み出せば弟子も左、右なら右へ、歩幅もすべて同じでなければならない。こうして師匠から行者の歩行のリズムや、どこでどのようなことを唱えるのかまで、千日回峰行のやり方を小僧時代から身につけていったのだ。

回峰行

昭和49年(1974年)3月27日、俊照師の千日回峰行が始まった。行者は人間のあらゆる欲望を断ち身体の限界を超えた時、心中に不動明王が現れるのだという。俊照師も不動明王の加護を受けて千日回峰を満行した行者の一人であった。

千日回峰も600日目の昭和52年5月末であった。 夜中に激しい腹痛に襲われ、うなり声をあげてトイレにかけこんだ。それでも定刻どおり午前2時には頭の山門を出たが、途中十メートルも歩けないほど苦しんだ。休むことは出来ず、死にものぐるいの難行であった。それが一週間も続いたのだ。俊照師はこのときの腹痛と脱水状態が行中最大の難儀であったと回想する。そして、気力と体力が限度を超えたとき、ふと不動明王が心をとらえたというのだ。

俊照師が縁側でしばらく横になっていると、師匠はどなりつけたのだ。
「たわけ!行者は寝とるもんやない。歩くもんじゃ、はよう行け。」
これほど衰弱しているのだから、いくら厳しい師匠でもやさしい言葉をかけてくれるだろう。と俊照師は弱気になっていた。その弱気を打壊するかの師匠の一喝。俊照師はもう死ぬ思いで歩くほかなかった。

その翌日、午前2時に山門を出て、西塔の釈迦堂に着いたのが数時間遅れの6時間半。そのとき師匠があずかっている小僧が駆け寄って来て「御前様は深夜の零時からここでじっと待っておられました」と言った。うがい用の茶筒を持った小僧を見たとき、師匠の配慮が胸につまったそう。涙があふれ出て、泣きながらまた歩いた。それから朝日に照らされた琵琶湖を山上から見おろしたとき俊照師は気づいた。
「行者はすべてをお不動さんに任せて歩くものではないか、行者即お不動さまであるはずなのに、実際は何も任せていなかった。情けない」。俊照師は行者としての使命を理解したのだ。

堂入り

700日を満行すると、そのまま明王堂に籠って、9日間、断食・断水・不眠・不臥の行つまり堂入りに入る。これもまた、過酷な行であり人間の限界を超えて真言を唱え続ける。そうして行者は生き菩薩に生まれかわるのだ。

俊照師は意外にも、そこまで耐え難くはなかったそうだ。というのも俊照師にとっては以前経験した1週間の腹痛の方が苦行だったのだ。無事に九日間を終え、いよいよ出堂の刻限。その直前に「満願の証明」が読み上げられ、椀に入れた「朴の湯」が手渡される。それをゆっくりと口に含んだ時、俊照師は天上天下唯一の気分で、実に素晴らしい心境でただただ嬉しかったのだそう。そして、堂を出る時も師匠の教え通り、介添を断り堂々と一人で歩いて明王堂から出たのである。その誇らしげな顔は俊照師の出堂に集まっていた人々を魅了したことだろう。

堂入りを無事に果たし、その次の赤山苦行と京都大廻りも無事に満行した。京都大廻りの最後の日、深夜にも関わらず北野天満宮では多くの信者が俊照師の姿を待ち侘び、無事に京都大廻りを終えた俊照師に花束の贈呈もあったとのこと。さらに赤山禅院では出迎えをする人々が一千人近くもいた。俊照師はこんなにも多くの人が祝福してくれるのかと感無量で涙を流した。それだけ俊照師は多くの人から慕われているのだ。

その後、最後の100日間も気を引き締めて歩き続け、昭和54年9月18日午前8時20分に千日回峰行を満行したのである。