由緒
赤山禅院(せきざんぜんいん)は、平安時代の仁和4年(888年)に、第三世天台座主円仁の遺命によって創建された、天台宗総本山延暦寺の塔頭のひとつです。
慈覚大師円仁(794年〜864年)は、838年、遺唐使船で唐に渡り、苦労の末に天台教学を納めました。その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされます。日本に戻った円仁は天台密教の基礎を築きましたが、赤山禅院の建立は果たせませんでした。その遺命により、第四世天台座主安慧(あんね)が赤山禅院を創建したと伝えられています。
本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したものです。泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。赤山禅院は、平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。以来、皇室から信仰され、修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596~1680)が離宮へ行幸された際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っています。現在も方除けのお寺として、広く信仰を集めている由縁です。
- 天台宗随一の荒行、千日回峰行の「赤山苦行」の寺
- 千日回峰行を満行した大阿闍梨により「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」「泰山府君祭」をはじめとする加持・祈祷が行われる寺
- 全国の七福神めぐりの発祥とされる都七福神のひとつ、福禄寿の寺
- 「五十(ごと)払い」の風習の始まりとなった、商売繁盛の寺
開創以来、1100年以上もの長い歴史を経て、赤山禅院には数々の由緒が重なり、さまざまな信仰を集めています。
千日回峰行、赤山苦行のお寺
赤山禅院は、天台宗の数ある修行のなかでも随一の荒行として知られる、千日回峰行と関わりの深い寺です。千日回峰行は、平安時代、延暦寺の相應和尚(831年〜918年、一説に〜908年)により開創された、文字どおり、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。
法華経のなかの常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものといわれており、出会う人々すべての仏性を礼拝された常不軽菩薩の精神を受け継ぎ、回峰行は、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝して歩きます。行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠をいただき、生死を離れた白装束をまとい、八葉蓮華の草鞋をはさ、腰には死出紐と降魔の剣をもつ姿をしています。生身の不動明王の表現とも、また、行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束ともいわれます。
千日回峰行は7年間かけて行なわれます。
1年目から3年目までは、1日に約30キロの行程を毎年100日間、行じます。行者は定められた260カ所以上のすべてで立ち止まり、礼拝して、峰々を巡ります。
4年目と5年目は、同じく1日30キロを、それぞれ200日間。
ここまでの700日を満じると、“堂入り”をむかえます。比叡山無動寺谷の明王堂に籠もり、9日間、断食・断水・不眠・不臥(食べず、飲まず、眠らず、横にならず)で不動真言を唱えつづけます。その回数は10万と言われ、満行すると阿闇梨と称され、生身の不動明王になるとされます。
6年目は、それまでの行程に加え、比叡山から雲母坂を下って赤山禅院へ至り、赤山大明神に花を供し、ふたたび比叡山へと上る往復が加わり、1日約60キロとなります。その100日は「赤山苦行」とも呼ばれ、行者の足でも14〜15時間を要する厳しい行程です。
7年目は、200日を巡ります。前半の100日間は「京都大廻り」と呼ばれ、比叡山中から赤山禅院、さらに京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。最後の100日間は、もとどおり比叡山中 30キロをめぐり、千日の満行をむかえます。
赤山禅院では、千日回峰行を満行した大阿闍梨が住職をつとめ、大阿闇梨により「八千枚大護摩供」「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」をはじめとする数々の加持・祈祷が行われています。
慈覚大師 円仁の遺言
15歳で伝教大師 最澄に師事し、最澄の入滅後の838年、さらに天台教学を学ぶため、遣唐使団とともに唐に渡りました。円仁はその様子を『入唐求法巡礼行記』に詳しく記しています。
10 年近くに及んだ留学は、困難を極めました。ときに唐は、晩唐の混乱期で、旅の安全が保証される状態ではなく、仏教にも非寛容だったのです。遣唐使団が帰路についたとき、目的を果たしていなかった円仁は、登州(現在の山東省)の赤山という地で下船。土地の居留民である新羅人に親切にされ、赤山の山中にある赤山法華院に滞留します。そこで、赤山の神々に五台山巡礼を願い、成就すれば日本に赤山禅院を建てることを誓ったとされます。
円仁はその後、長い旅を続け、ついに五台山巡礼を果たし、さらに、唐の都、長安に学ぶことができました。折からの武宗皇帝の仏教弾圧に遭い、あまたの仏寺が壊され、僧が還俗させられる中、天台の秘法を修め、貴重な図画や曼茶羅、経典などを持ち帰ることとなったのです。
円仁の一行は、日本への帰路でも何度も遭難しそうになりました。そのとき、船のへさきに赤い衣を着て白羽の矢を負った赤山明神があらわれ守護した、とも伝えられています。
日本に戻った円仁は、第三世の天台座主となり、多方面にわたる精力的な活動によって天台密教の基礎を築きました。しかし、赤山禅院を建てるという念願は果たすことができませんでした。
病の床についた円仁は、安慧(あんね、後に第四世天台座主)をはじめとする弟子たちを呼び、その遺言の中で、赤山禅院の建立を命じたとされます。
赤山禅院が現在の地に創建されたのは、円仁の入滅から20余年後の888年のことでした。